伊能図は経度方向にも高精度だった!

(noteにも公開しています。内容は同じです)
伊能図は緯度方向には精度は良いが経度方向にはずれている(精度が低い)とされています。なにせ本家本元の「伊能忠敬記念館」でさえ正面入り口のパネルで堂々とそのように展示していますのでそれが『定説』になっています。

本資料では、「そんなことはありません。データをよく見てみれば、定説の方が間違いで、伊能図は経度方向にも十分な精度を有していたことがわかります」ということをご説明していきます。

そんなこと急に言われてもにわかには信じられないでしょうから、ゆ~っくりと丁寧に解説していきます。気楽に楽しんでお読みください。

伊能さんは、ご自身のことを「天文方高橋作左衛門弟子 伊能勘解由」と呼んでおられるように、『天文家の弟子』を自負されており、天体観測にその真骨頂を発揮されています。

伊能さんによる、とある日の天体観測を見てみましょう。

1801年9月18日、これは我々のカレンダーでの表記で、伊能さん的には寛政12年7月30日の夜ですが、彼の日記でいうところのアツケシ、現在の北海道厚岸町で天体観測を行った結果が以下です。ちょっと長いですが、一晩でこれだけ恒星を計測して記録に残していらっしゃるのですから、我々現代人も少しぐらいは我慢して、最後まで読んでそのすごさを実感してみましょう。

1801年9月18日(寛政12年7月30日)アツケシにおいて、
18時2分頃に、こと座α星(ベガ、織姫)を、高度85度34分25秒に観測。
18時14分頃に、こと座β星(シェリアク)を、高度79度22分40秒に観測。
18時17分頃に、いて座ξ2星を、高度25度39分30秒に観測。
18時24分頃に、いて座ο星を、高度24度59分25秒に観測。
18時28分頃に、わし座ζ星を、高度60度38分15秒に観測。
18時29分頃に、いて座π星(アルバルダー)を、高度25度41分10秒に観測。
18時47分頃に、わし座δ星(アルミザンI)を、高度49度40分25秒に観測。
18時54分頃に、はくちょう座β1星(アルビレオ)を、高度74度29分55秒に観測。
19時8分頃に、わし座γ星(タラゼド)を、高度57度7分15秒に観測。
19時12分頃に、わし座α星(アルタイル)を、高度55度19分20秒に観測。
19時14分頃に、わし座η星(アルミザンII)を、高度47度28分40秒に観測。
19時17分頃に、わし座β星(アルシャイン)を、高度52度52分35秒に観測。
19時55分頃に、いるか座ε星(アルドゥルフィン)を、高度52度52分35秒に観測。
19時59分頃に、いるか座β星(ロタネウ)を、高度60度53分55秒に観測。
20時2分頃に、いるか座α星(スワロキン)を、高度62度10分33秒に観測。
20時5分頃に、いるか座δ星(アル・ウクド)を、高度61度10分**秒に観測。
20時9分頃に、いるか座γ2星(アル・サリブ)を、高度62度23分0秒に観測。
20時10分頃に、はくちょう座ε星(アルジェナー)を、高度80度11分26秒に観測。
20時37分頃に、こうま座α星(キタルファ)を、高度51度23分5秒に観測。
20時52分頃に、みずがめ座β星(サダルスウド)を、高度40度32分40秒に観測。
21時5分頃に、ペガスス座ε星(エニフ)を、高度55度57分20秒の高度に観測。
21時27分頃に、みずがめ座α星(サダルメリク)を、高度45度39分50秒に観測。
21時31分頃に、ペガスス座θ星(ビハム)を、高度52度11分35秒に観測。
21時42分頃に、みずがめ座γ星(サドアクビア)を、高度44度35分15秒に観測。
21時46分頃に、みずがめ座π星(セアト)を、高度47度21分15秒に観測。
21時50分頃に、みずがめ座ζ星(サダルタゲル)を、高度45度56分10秒に観測。
21時56分頃に、みずがめ座η星を、高度45度49分50秒に観測。
22時5分頃に、ペガスス座η星(マタール)を、高度76度9分15秒に観測。
22時8分頃に、ペガスス座λ星(サダルナジ)を、高度69度29分55秒に観測。
22時11分頃に、ペガスス座μ星(サダルバリ)を、高度70度31分25秒に観測。
22時17分頃に、みなみのうお座α星(フォーマルハウト)を、高度16度21分10秒に観測。
22時25分頃に、ペガスス座β星(シェアト)を、高度73度57分2秒に観測。
22時26分頃に、ペガスス座α星(マルカブ)を、高度61度5分52秒に観測。
23時29分頃に、アンドロメダ座α星(アルフェラッツ)を、高度74度57分1秒に観測。
23時34分頃に、ペガスス座γ星(アルゲニブ)を、高度61度2分50秒に観測。
0時4分頃に、くじら座β星(ディフダ)を、高度27度54分20秒に観測。
0時29分頃に、アンドロメダ座β星(ミラク)を、高度81度31分20秒に観測。

18時から翌0時半の間に実に37個もの恒星を計測しています。後で詳しく述べますが、このような天体観測を日本中の1200か所以上で行っておられます。

計測方法はいたってシンプルで、南北に張った糸の上を恒星が通過していくその瞬間の恒星の水平からの角度(高度)を測って記録していくだけです。といっても機器を設置し、南北方向を出し、天を見上げて南北線通過の瞬間を待ち、その時のその恒星の高度(水平からの角度)を次々と読み取っていくのは大変な作業です。

計測記録の一部は現代でも残っていて、国立国会図書館から電子的に公開されています。ここでは上記で紹介した、「アツケシ」の該当ページを3ページ分紹介します。

アツケシでの天体観測記録その1

アツケシでの天体観測記録その2

アツケシでの天体観測記録その3

一番最初の「織女」は現代でも想像つきます(織姫・彦星の織姫)が、他の東洋式の恒星名(健一など)が、現在我々が日常的に使っている何座の何星に該当するってどうやってわかるの?と思われたかもしれませんが、調べることは簡単です。その日にその高度で南北線を通過していく恒星を現代の天体シミュレータで再現すればその対応関係がすぐにわかります。Pythonでも計算できますし、Stellariumのような天文シミュレーションソフトでも視覚的に見ることができます。例えば、1800年9月18日19時12分ごろのアツケシの空をStellariumで再現してみると、次のようになります。

1800年9月18日19時12分ごろのアツケシの空をStellariumで再現

その時刻に南北線を横切るのは、わし座のα星であるアルタイルで、シミュレーション上の高度は55度18分18秒、それを伊能さんは55度19分20秒と記録しています。1分と2秒の差ですので、角度にして0.017度の差です。十分に高精度ですが、さらに37もの恒星を計測することで、「平均的な精度」を上げています。

伊能さんの記録には計測した時刻の記載はありませんが、このように天体シミュレータ上で現在の恒星名だけでなく、計測時刻や高度も再現できます。現代の天文ソフトで、各夜の伊能さんたちの計測をよみがえらせると、伊能さんたちが見ていた景色が目の前に広がって想像できます。

天体観測を日本中で行い、基準の地点で同じ恒星を測った角度との差が、基準の地点とその地点の緯度の差になります。基準の地点とは伊能さんのご自宅があった江戸深川と思ってもらって大丈夫です。正確には日本全体でみると「基準点」はもう少し複雑なのですがそれはまた後ほど述べます。

さて、伊能図にはそのように天体観測を行った地点が☆マークで示されています。目を皿のようにして伊能図に☆マークがついている場所を探していくと、先ほど述べたように日本全体で1200個所以上あります。先ほどのアツケシの例では一晩で37個も恒星を測っていましたが、普段の日はもっと少なく、途中で曇ってきたり雨が降ってきたりで切り上げる日もあるので平均としてはもっと少なく見積もって例えば10個としても、日本全国で12000回以上恒星を計測したことになるわけですから大変な努力です。それだけでも大天文学者と呼んで差し上げたいです。

さて、経度の話に入る前に、よく言われる「緯度の方は精度が良い」というのが、どれぐらい本当なのか、先ほどの1200以上の天体観測地点を用いて詳細に評価してみます。

と、言葉でいうほどにはこの作業は簡単ではありません。まず1200か所以上の各地点で「伊能さん達はどこで測ったのか?」を正確に知る必要があります。というのも例えば「小田原で測った」だけでは0.1度程度の誤差は容易に出てしまい、ここでいう精度評価には適しません。「小田原の『どこ』で測ったのか?」を正確に知る必要があります。

一番容易なケースは、宿泊場所が大きな寺社で、現存しており、日記にも天体観測を行った旨の記載があり、地図上の☆印もおおよそその位置についている場合です。これは寺社の広い庭や広場を利用して天体観測を行ったということで、天体観測を行った場所は現在もあるその寺社の場所だと特定して間違いありません。

次に容易なケースは、宿泊場所が宿場の本陣など、現在でも「〇〇本陣跡」などとして史跡として残っており、場所が特定できる場合です。ただし注意点がいくつかあります。一つは伊能さんの天体観測には南北にひらけた場所が必要ですが、本陣は当時の市街の中心的な場所ですので家屋が密接しており、南北にひらけた場所がなかったであろうと思われる場合です。この時は伊能大図の☆マークの位置をよく見ていくと、例えば、「本陣から南に行ったところにある川のそばで観測したな」、ということがわかる場合があります。周囲が開けている場所を選んだということです。実際、川沿いや、川にかかっている橋は周囲が開けているのでよく使っています。他の注意点は、大きい宿場は南北や東西に長い所もあるので「宿場の具体的にどこに宿泊したか」の特定が必要になります。日記に書かれている屋号などがヒントになります。

意外と難しいのが、宿場や陣屋がないような小さな村で、庄屋さんや当時の富豪農家の家を宿泊場所にした場合です。さすがに江戸時代の庄屋や農家の場所を、現代で特定するのは難しいです。没落したり、途絶えたり、たて壊されたり、苗字が変わったり。。。ただしこの場合に救われることは、そのような村はそもそも大きくないので、村の中心地と思われる場所を選んでも精度評価に影響することはほとんどないことです。

他にも難しいのが、当時の大きな酒蔵を宿泊地としたが現在は廃業して跡形もない場合や、戦火や都市開発などで当時の街並みが見る影ないほど変化している場合などです。ただしこの場合も町の歴史家の様な方々がその町の歴史的な変遷を調べてネットに公開されておられたり、明治初期の写真に偶然その酒蔵が写りこんでいて、背景の山の形などから場所を特定できるようなこともあります。

このように、『天体観測場所の特定作業』を1200か所以上の場所について、一つ一つ丁寧に、時間をかけてやっていきます。地道な作業で天体観測の場所が特定できた時は本当にうれしくなります。ただし、この作業はあまり気軽に始めることはお勧めしません。私の場合でも完成に約2年かかりました。

さて、1200か所以上の天体観測を行った現在の場所が特定できれば、あとは伊能図と一緒に提出されたいわばテキスト版(デジタル版)伊能図ともいうべき「興地実測録」に記されている緯度値と現在の値を比較するだけです。すなわち伊能さんたちはその地点の緯度を、主に天体計測の結果としてA度と記録に残しており、現在我々はGPSその他でその地点の緯度はB度だということを知っているので、AとBを比較するだけです。これはエクセルやGoogleスプレッドシートの出番で、すぐにできます。

興地実測録

興地実測録の記録はこのようになっており、例えば本牧は北緯35度25分、横須賀は北緯35度17分と、非常に読みやすいきれいな字で明確に記されています。またある場所から次の場所までの距離も示されています。これはつまりテキスト版の伊能図です。

全地点(カウントしたところ全国で1225か所でした)の緯度を現在の値と比べた結果は、想像を超えた『驚異的』な精度でした。

平均誤差:0.00041度
標準偏差:0.00891度

なんらデジタル計測器を用いず、足と手と目で測った結果が、平均誤差0.00041度ですと!?あんな原始的な(失礼)計測装置で測ったら、計測装置のバイアス特性とか、測る人の癖とかでプラスかマイナスかどちらかに偏りそうなもんですけど。

なぜ、こんな超高精度が出るのでしょう?まずはアツケシの例でもわかるように、少しでも多くの恒星の観測を行って、多数を統計処理することで真値に近づけようとする強い意志が感じられるその観測姿勢です。また、天体観測だけでなく、観測点間の距離と方角の計測や、富士山や筑波山や伊吹山のようなランドマークからの方位の計測など、「使えるデータは全部組み合わせ(データフュージョン)、それらがもっとも合理的に整合する値を選ぶ」という、背景を流れる考え方、つまりフィロソフィーが正しいように思われます。現代風に言えば「センスが良い」、です。

各地点ごとの計測誤差のばらつきを示す標準偏差σは0.00891度とそれなりにありますが、それでも驚異的に小さい値です。日本地図を完成させなければいけないという責務(しかも徒歩で!)から、各地点をゆっくり測っている時間はないので、多くの地点で天体観測は1回だけ(一晩だけ!)です。しかも途中で曇ったり雨が降ってきたり大風が吹いたりしています。途中から吹雪いてきた日もあります。そのような条件で、各地点の計測のばらつきが0.00891度というのは驚異的な「計測の安定性」です。とても正確で几帳面な方だったのだろうと想像します。

伊能さん、とにかくすごいです!!!

さて、次はいよいよ本題の『経度』です。

興地実測録に経度の記述はありません。ただし、伊能図完成の3年後の1824年に高橋景保(かげやす)さんにより提出された『地勢提要』という文書には、京都を中心とした経度も記されています。高橋景保さんは、伊能さんが師と仰いだ高橋至時さんの息子さんで、伊能さんの死後、伊能図を幕府に提出された方です。

地勢提要には、例えば青森の「野邉地」は、極高(北緯)が40度52分半(40.875°)、経度が京都から東5度45分とされています。

野邊地の北緯の現在値は40.86599°ですので、緯度の誤差は0.009°であり、統計通りの(典型的な)分散値で何も問題がありません。正確です。

問題は経度で、経度の東5度45分に京都の経度を加えて現在の東経として表記すると141.48736°です。野邊地の現在の東経値が141.12686°ですので、経度誤差は0.3605°となって、これが「伊能図は経度方向誤差は大きい」とされてきたゆえんです。

伊能さんたちの地図から経度を算出した方法が、作図法をサンソン図法だと解釈したものであれば地図上の点(x,y)は

と読まれます。Cは地図をどのような大きさで表記するかの定数(つまり縮尺)、λは経度で、伊能図でλ₀は京都を通る経線。Φは緯度です。

一方で、ここが一番重要な点ですが、伊能さんの実際の図法はサンソン図法でなく、『とある基準点』から実測値に従って描かれたもので、式で表現するならば

です。ここでΦ₀はその周辺の地図が、どの地点を起点に描かれたのか、起点となった場所の北緯です。この両式は同じように見えて決定的に違います。後世に定説となった、「伊能図は経度方向にずれている」はこの地図の(図法の)読み間違いに起因するものです。

この読み間違いによって、両者の差

分だけ誤差を人為的に追加してしまっていることになります。従って、地勢提要の数値に対して上記分を逆に補正し直してやれば、元の伊能図の真の作図精度がわかります。

伊能隊は第1次~3次で江戸を起点に東北北海道を測量。第4次で江戸を起点に東海北陸佐渡などを測量。5次で京都大阪を含み紀伊半島と中国地方を測量。第6次で京都大阪を含み四国を測量。第7次で下関を含み九州南部を測量。第8次で下関を含み九州全体を計測しています。

別に現存している『東西南北距離記』に、江戸深川黒江町から見て大阪冨田屋町(間重富邸)は西に3丈5尺7寸4分9厘9毛との記載があります。大距離での東西の記述がある貴重なものです。3丈5尺7寸4分9厘9毛は1度101.52寸の伊能大図の基本尺度から
357.499寸/101.52寸/cos(35度30秒)=4.29935°
の経度差に相当します。

深川黒江町と大阪冨田屋町の真の経度差は
139.794189-135.49251=4.30168°
なので、真の経度差との誤差は
4.30168-4.29935=0.0023°
となって、現代の精度と比較しても十分に良い精度で経度方向を把握していたことがわかります。

地勢提要にも深川黒江町は京都から「経度東4度3分半」とあるので現在の真の経度との差は0.0015°です。いずれにせよ「京や大阪と、江戸深川の経度方向の関係は十分な精度で把握していた」ことがわかります。

同様に、下関(赤間関)は経度西4度47分とあるので現在の東経との差は0.0062度。こちらも十分な精度で東西方向を抑えています。

という誤差の式の形から見て、京都との北緯の差が少ないエリアは人為的な誤差が入り込みにくく、後で述べる方法により、そもそも経度方向にも正しい値で計測していたのです。
逆に、上記の式の形からして、「地勢提要内に記されている経度は、京都から東西に離れるほど、かつ、南北に離れるほどに人為的な読み取り誤差が大きく加えられてしまっている」と予測されます。以下では、起点はどこだったのかを意識しながら、人為的に加えられてしまった誤差を修正していきます。

まず、青森の野邉地のケースは江戸起点として上記のx分を角度で示すと、江戸深川の北緯は35度40分半(35.675°)と捉えていたので経度の修正量は、
(5+45/60)×(cos(40.875°)-cos(35.675°)=-0.32314°
であり、人為的な誤差を補正した、本当の経度誤差は
0.36050-0.32314=0.0374°
ということになります。作図自体の精度は従来言われていた誤差の約1/10です。

地勢提要のデータの中で一番京都から東に離れており、かつ北にも離れているのはこの資料の前半にも出てきた「アツケシ」です。アツケシは極高(北緯)が43度2分(43.03333°)、経度が京都から東9度50分とされています。北緯の真値は43.04164°ですので緯度誤差は0.0083°と高精度です。たくさん天体観測をした成果が出ています。

経度は、東9度50分を東経で表記すると145.57069°であり、真値が144.8493°であるために、東経誤差0.72139°となって非常に大きいように見えてしまいます。これが伊能忠敬記念館やいろいろなサイトで「伊能図は、特に北海道などで経度方向に大きくずれています」とされている「誤解」の源です。

伊能さん達の汚名をそそぐために元の作図精度に戻します。

アツケシの経度の修正量は江戸深川を起点に、
(9+50/60)×(cos(43.0333°)-cos(35.675°))=-0.80025°
ですので、本当の経度誤差は
0.72139-0.80025=-0.0789°
です。すなわち、従来言われていた経度方向誤差のほとんどは、作図法の解釈の間違いから持ち込まれた人為的なもので、伊能図自体の精度は江戸や京から遠く離れた北海道のアツケシでも、従来言われていた誤差の約1/10です。

南西、つまり九州南部の方はどうでしょうか?

地勢提要には屋久島吉田安房村の記載があり、極高(北緯)が30度18分(30.30000°)、経度が京都から西4度55分半とされています。
北緯の真値は30.31464°なので北緯誤差は0.0146°。とびきり良いわけではないですが、1.6σぐらいですから時々あるぐらいの誤差です。
経度は、西4度55分半を東経で表記すると130.81236°であり、真値が130.65304°であるために、東経誤差0.15932°です。これも、北海道ほど大きな誤差ではないですが、よく「伊能図は九州南部もズレている」と言われる原因です。

伊能さん達の汚名をそそぐために元の作図精度に戻します。

九州の地図は下関(長門赤間関南部町)を起点に書かれています。

赤間関の極高は33度57分半(33.95833°)と測定されています。従って屋久島吉田安房村の経度の修正量は赤間関を起点に、
-(4+55/60+30/3600)×(cos(30.30000°)-cos(33.96833°))=-0.16769°
で、本当の経度誤差は
0.15932-0.16769=-0.00837°
となります。離島でありながら驚異的な精度です。ここでも誤差のほとんどは読み取り時の図法の誤解で持ち込まれたもので、作図の精度は従来言われていた誤差の約1/20です。

一番西ではどうでしょう。

地勢提要で一番西にあるのは肥前五島玉之浦深浦で、極高32度38分(32.63333°)、京都から西7度2分半とされている。北緯の真値は32.63191°なので緯度誤差は0.0014°。すばらしい精度です。
西7度2分半を東経で表記すると128.69569°で、真値が128.61721°ですので、経度誤差0.07848°です。なぜ西に一番遠いのに誤差がそれほど大きくないかというと、赤間関との北緯差がそれほどないからです。

それでも補正は効きます。

肥前五島玉之浦深浦の経度の修正量は下関を起点に、
-(7+2/60+30/3600)×(cos(32.63333°)-cos(33.96833°))=-0.09008°
であり、本当の経度誤差は
0.07848-0.09008=-0.0116°
で本当は1/7ほど高精度です。

このように、九州は下関(赤間関)を起点に非常に高精度で求められています。なお、約1/10や1/20や1/7という数字自体にそれほど意味があるわけでなく、とにかく、北海道や南九州でも「従来言われていたより十分に精度が良い」、ということです。

以上のように、伊能図は緯度のみならず、経度方向にも十分な精度を持っていたことがわかります。

地勢提要には、日本の代表的な地点116点が抜き出されています。緯度は興地実測録と同じ値です。それら全116点に、上記と同じように伊能図から経度方向を読むときに、図法の誤解から取り込まれてしまった人為的な誤差を除いた値を計算して、結果を統計処理すると、

平均誤差:0.00013度
標準偏差:0.0310度

となります。ここで伊能図は九州は下関(赤間関)を基準に描かれたとし、それ以外は江戸深川を基準に描かれたとして人為的な誤差を取り除きました。

経度の平均に至っては緯度よりさらに良く、限りなく0で東西に偏っていません。さらに重要なのは標準偏差ですが、0.0310度。緯度の3.5倍ほどはありますが、各地の経度を1σ=0.031度以下で求めていたのですから、計測原理から言っても十分すぎる精度と言えるでしょう。

やはり、すごいぞ伊能さん!

緯度は天体観測によるとして、いったいどうやって経度方向にも良い精度を得ていたのでしょう?

伊能忠敬さんや高橋至時さんたちのみならず、人類が「経度」を知りたがった歴史はとてもとても長いものです。最後に伊能さん達がどのように経度も得ていたかの話につながっていきますので、しばらく辛抱して人類の経度探求の歴史にお付き合いください。

伊能さんたちからさかのぼること200年以上前の1567年、スペイン国王フェリペ2世は「経度を測る方法を見つけたものに6000ドゥカートの賞金を出す」と発表しました。その息子さんで後継者のスペイン国王フェリペ3世も1598年の王位継承時点から賞金を現金で6000ドゥカート、終身年金で2000ドゥカート、経費で1000ドゥカートに増額しました。総額9000ドゥカートで、これは現在の価値で1億円弱で、一生遊んで暮らせるほどではありませんが、大金には違いありません。日本でいえば関ヶ原の合戦のころです。その頃すでにヨーロッパでは国を挙げて経度を知ろうとしていました。スペインとポルトガルの新しく発見した領土の争い(経度で分けていたので、経度を知ることが重要でした)や、海上で自分の位置がわからないと悪天候や夜間に突然島や大陸にぶつかって座礁、沈没してしまうことからも、経度の把握は極めて重要な問題でした。

スペイン国王フェリペ3世が懸賞をかけてから12年後の、1610年1月7日、ガリレオ・ガリレイは新しく作成した望遠鏡で木星を見ていた時、その周りをまわる「星」に気がつきました。初日は3つで木星の東と西に分かれて見えました。翌1月8日には驚くべきことにそれらが全部木星の片側に寄っていました。1月9日は曇りで見えず、1月10日に見てみたら2つしかありません!、そして1月13日にはなんと4つも見えました!!

これらは現在ガリレオ衛星と呼ばれるもので、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストです。ガリレオはスペイン王室に対し、この4つの衛星を使えば経度がわかると提案しました。木星の影に入って見えなくなったり(食)、影から出て見えるようになったり、また木星自体の向こう側に入って見えなくなったり(掩蔽)、出てまた見えるようになったりという事象、つまり4つの衛星が消えたり再び光り始めたりするタイミングを計測すれば、そのこと自体は地球上のどこで見ていても同じタイミングで起きるので、そのイベントが発生したローカル時刻がわかり、ローカル時刻の差は経度の差、というわけです。

しかしながらこの方法はスペイン王室から却下されました。なぜか?まず、ゆれる船の上で大きな望遠鏡で木星をとらえ続けることは至難の業だったのです。それと船の場合は、座礁を避ける意味でも「今現在」自分がいる経度が知りたいのですが、そのためには、航海期間中の正確な予報テーブル(例えばロンドン時刻での)をあらかじめ持っていて、それと今の計測を比較する必要があります。つまり誰かが正確な予測計算を事前に用意してくれないといけません。

一方で陸上の場合は、土地は船のようには動きませんので、イベント発生のローカル時刻を記録しておき、それを手紙で交換すれば、後でローカル時刻の差、すなわち経度差を求めることができます。正確な予測計算もいりません(どの時間に望遠鏡を向けたらよいか知りたいので、概略の時刻は知りたがったはずですが)。

ヨーロッパで覇権を争っていた国々が知りたかったのは「海上での経度」で、これは陸上の経度を求めるよりはるかに難しく、結局有効な手段が実用になったのは1767年で、スペイン国王フェリペ2世の懸賞金宣言から実に200年を要しました。その間、木星衛星の挙動を予測する必要性から、光に早さがあること(光速)が発見されたり、月や惑星の運動からケプラーの法則やニュートン力学などが発展しました。まさに必要は発明の母でした。

一方で、「陸上の経度決定」は先述のようにこれよりはずっと容易な問題で、木星衛星のイベント発生のローカル時刻が計測できれば十分でした。ガリレオの死後、天文学者カッシーニは1668年に木星衛星の運行表を発表しています。カッシーニは1672年にこの方法を用いてパリとVen島というスウェーデンとデンマークの間にある島の経度差を求め、0.2度の精度で正解を得ています。カッシーニは1693年にこの方法で経度方向を正確に求めたフランスの海岸線地図を発表しました。フランスの西や南の真の海岸線は当時のフランス人が思っていたより国土が狭い側が正解なことがわかり、国土が小さくなってしまったフランス国王を怒らせたという有名な話があります。

とにかく、伊能さんたちが日本全国の測量をはじめる100年以上前には、地上の経度を求める方法は確立されていたのです。では、それは鎖国中の日本にいったいいつ、どうやって伝えられたのでしょう。

その答えは有名な『ラランデ暦書』によってです。ラランデ暦書は1771年にフランスの天文学者ラランデによってフランス語で記された天文学全般に関する本が、オランダ語に翻訳され、1803年、伊能さんのお師匠さんである高橋至時さんによって入手されました。高橋さんはその内容に感動し、寝食を忘れるほどその内容の解明に努め、持病の悪化から翌1804年に亡くなってしまいます。

この時期はちょうど伊能さんたちの第4次遠征と第5次遠征の間に当たります。

では、ラランデ暦書には木星衛星についてどのように書かれていたのでしょうか。その内容を渋川景佑(かげすけ)さんが「新巧暦書」の第14巻で解説しています。渋川景佑さんは、高橋至時さんの次男です。新巧暦書は現存しており、現在国立天文台によって電子的に公開されています。第14巻だけでも全体は詳細かつ長いのですが、そこからほんの一部を抜粋してみましょう。

先考曰是法為推四小星食干木星影中所建而與月食同理
先考(せんこう)曰く、この方法は木星の四つの衛星(小星)が、木星本体の影に入る現象(食)を計算するために設けられたもので、月食と同じ原理である。

一心碍干木星體而不能見也於西洋則用以測各國之里差
(木星の衛星が)木星本体に隠されて見えなくなる。西洋では、この現象を用いて各国の経度の差を測る。

故為至要也夫日月之食以求里差振古之常法也。
それゆえ、最も重要なことである。そもそも、日食や月食を利用して経度(里差)を求めることは、昔から変わらない常識的な方法なのである。

今尚無不據焉然日月之食毎歲不必有省去晝月食夜日食則所用者厪厪。
今でも、経度測定にはこの(日食・月食の)方法が拠り所となっている。しかし、日食や月食は毎年必ずあるわけではない。さらに、昼間に起こる月食や夜間に起こる日食は観測できないため、実際に使える機会はごくわずかだ。

此四小星一周日數為速故一歲中食及為速故一歳中食及數十次。
それに対して、木星の四つの衛星は一周する日数が非常に速い。したがって、一年の間に食現象が数十回も起こるのである。

假省去畫食尚饒多矣藎測里差之便莫過焉
たとえ昼間の食を省いたとしても、(木星の衛星の食は)なお非常に多い。経度を測定するのに、これほど便利な方法はない。

原書不録之步法蓋其術不易布等頗煩而其測里差之用既取入出于木星影中者為足故也 
元の書物には、その具体的な計算方法が記録されていない。おそらく、その技術は複雑すぎて簡単に広めることができなかったためだろう。しかし、経度を測る目的には、衛星が木星の影に入っていく時と出てくる時を観測できれば十分である。

予近閱諳厄利要国一十七百九十八年曆本載木星第一小星之食而其退衡前記初虧時分秒退衝後記復圓時分秒其密数如此者蓋為測里差而録也
私は最近、イギリスの1798年の暦書を見た。そこには、木星の第一衛星の食について、平衡位置から遠ざかる前には食の始まり(初虧)の時刻が、遠ざかった後には食の終わり(復円)の時刻が、それぞれ分と秒の単位で詳細に記されていた。このような精密な数値が載っているのは、経度(里差)を測るために記録されたからであろう。

又於四小星中特舉第一小星者應食之多故也又得彼暦一千七百九十五年五月门之殘具録四小星之食想暦象家航海家之所佩也
また、四つの衛星のうち、特に第一衛星だけが挙げられているのは、食が起こる回数が多いためであろう。さらに、私は1795年5月のその暦書の切れ端を手に入れたが、そこにも四つの衛星の食がすべて記録されていた。これは、おそらく天文家や航海士が携帯して利用していたものだろう。

文政元年戍寅冬十月
文政元年(1818年)戊寅(つちのえとら)の年の冬、10月

澁川景佑識
渋川景佑(しぶかわ かげすけ)の記すところ

1818年は伊能さんがお亡くなりになった年。伊能図の幕府への提出の3年前です。ラランデ暦書を入手してから15年が経っています。その中で、「経度を求めるのにこれほど便利な方法はない。予測ができなくても、経度を測る目的には、衛星が木星の影に入っていく時と出てくる時を観測できれば十分である。」等々、伊能さんや高橋景保さんや渋川景佑さんたちは、木星衛星を使った経度決定の原理を、伊能図提出「前」には完全に理解していました。

高橋至時さんがラランデ暦書を入手され、志半ばで1804年2月15日にお亡くなりになった後、伊能さんたちは次の測量の準備をし、1周忌がすんだ後の1805年3月25日から西日本の測量に向かいます。第5次測量です。この時、高橋善助さん、すなわち先ほどのラランデ暦書の解説を1818年に上程した、のちの渋川景佑さんも同行しています。この時高橋善助さん18歳。ラランデ暦書から経度測定の原理も知り、木星衛星の観測という新しい計測にきっとやる気に満ち溢れていたものと想像します。

1805年3月25日に出発し、昼間は測量と富士山などのランドマークの方位を計りながら、天気の良い夜は天体観測を行いながら西に向かい、1805年5月18日伊勢神宮に到着します。当日の日記に「六ッ後浅草頒暦所より御用状」とあります。浅草天文台より木星衛星その他に関する情報が伊勢神宮を経由して届いたものと思われます。

伊勢暦は、江戸時代に最も広く使われた暦で、伊勢神宮の御師(おし)は全国を巡りこの暦を配りました。暦の中身は浅草天文台が決めていたわけですから、浅草天文台と伊勢神宮には定常的な交流関係があったのでしょう。この第5次遠征では最初から伊勢神宮を情報の交換目的地とすることが決まっていたように思われます。

その2日後の5月20日の日記に「夜九ッ頃木星四小星の一凌犯、市野、平山等測る。夜も明ぬ。」とあります。とうとう木星衛星の凌犯(すなわち食や掩蔽)を計測しました。これ以降、木星衛星の食や掩蔽を伊能さんたちの言葉で「凌犯」と表現します。私の知る限り、この伊勢神宮での夜が、記録が残っているものでは木星衛星の意図した凌犯観測の日本初の事例ではないかと思います。

この夜、平野さん、平山さん達が「夜九ッ頃木星四小星の一凌犯」として見たのはいったい何だったのでしょう?天体シミュレーションで再現してみましょう。

Pythonで計算することもできますが、現代人は通常はJPLのエフェメリスデータを使いますので、結局誰が計算しても結果は同じになります。であれば本家本元のJPLのHORIZONSサイトでシミュレーション結果を見る方が、いろいろ説明が少なくて楽です。
https://ssd.jpl.nasa.gov/horizons/app.html#/
上記JPLサイトで、1805年5月20日の木星を再現すると、この夜の0時12~14分にイオが部分食となり、0時15分に完全な食となって消える(消えた)ことがわかります。まさに「夜九ッ頃木星四小星の一凌犯」ですね。
ただし、「夜も明けぬ」とは何でしょう?古い英国航海暦は現代のグリニッジ天文台のサイトでみることができます。
https://www.royalobservatorygreenwich.org/articles.php?article=935
この1805年ファイルの5月の木星衛星イベントをみると、5月20日に衛星I番(すなわちイオ)が3:14:2に消えると書かれています。

1805年5月の英国航海暦

古い英国暦は現在の時刻にするには+12時間する必要があります。したがって現在のグリニッジ標準時刻で15:14:12に消えるという予想です。日本時間では+9時間して夜の0時14分です。つまり1805年の時点で、イギリスやフランスでは十分な精度で木星衛星の凌犯を予測できていたことがわかります。いずれにしても、この5月20日の夜に発生する凌犯イベントはこの0時14分のものだけです。「夜も明けぬ」ほど木星を見ていたのは、まだ浅草の予報が不正確で他の時間に食イベントがあると予想されていたか、もしくは予想の不正確さから0時14分の食を見逃して、結局朝まで見ていることになったのかもしれません。

翌5月21日には「五ッ後外宮参詣還て午中を測る。」とありますので、午前8時に外宮にお参りし、その後、太陽の南中高度を計測してイベントのローカルタイムを把握しています。この日の夜も木星凌犯計測を試みますが曇って測れませんでした。

5月27日に「此日江戸下し書状相認山口兵衛を頼。」とありますので、これまでの木星凌犯観測の結果を江戸へ伝えたのでしょう。

翌5月28日「木星凌犯測量都合、測器仕立に直に鳥羽城下へ行、四ッ後に着。止宿、浄土宗西念寺。」とあります。伊勢神宮で行ってみた木星凌犯測量の結果、何か問題に気がつたようです。伊勢神宮では測器仕立ができず、鳥羽への移動を決意したようです。当時の鳥羽は江戸と上方を行き来する廻船の風待ち港として栄えていました。浄土宗西念寺は鳥羽市にいまもある立派なお寺です。どのような測器仕立てが必要だったのか今となっては知る由もありませんが、とにかく鳥羽に直行しています。

5月30日「我等、高橋、市野残居て地図方位推歩、木星測量の用意に午中を測る。此日未明、市野、日和山に行て遠山を測る。日出前に冨士山を測得たり。」と日記にある通り、伊能さんと高橋善助さん、市野さんは残って地図方位の計算と、木星測量の用意に太陽の南中時刻を出してそこを起点に垂球をカウントさせます。また未明に市野さんが、日和山に行って日出前に冨士山の方位を測ることに成功しています。これは非常に大きいです。伊能さん達は1801年7月に現在の千葉県銚子の犬若岬から富士山の方位を計ることに成功しています。これで本州の銚子から鳥羽まで、途中の計測点も含めて経度方向にずらっと富士山の方位が測れたことになります。これは経度方向の決定に大いに参考になります。

6月1日(伊能さん達の暦では5月4日)、「朝六ッ後我等、永沢、日和山へ行、遠山を測。冨士山不見、幽に白山を測、又伊吹山を測る。」とあります。朝、日和山へ行ったが富士山は見えず。ただし、伊吹山が測れました。これも非常に大きいです。富士山からの方角だけでなく、伊吹山からの方角もわかりました。この両方位線の交わる点が鳥羽の位置だと計算されます。実際は測れるだけ数多くのランドマークからの方位を計り、緯度は天体観測を重視し、これら方位線と緯度の一番多く交わるところ(平均的なところ)が鳥羽の緯度・経度だとすることができます。

6月3日、「我等、市野、永沢、残居て子午線、垂揺球を測。四ッ後より晴天、太陽午中を測る。」「此夜木星、四小星凌犯を測る。暁に至る。測人高橋、市野也。曇て不見。」。再び木星、四小星凌犯にトライしています。この日に見えるはずだったものは何でしょう?
英国航海暦の1805年6月を見ると6月3日はイオが9:11:39に木星の影から現れて光り始めるとあります。つまりグリニッジで21:11:39です。これはSteralliumでも確認できます。JPL HORIZNでも同様に確認できます。日本の時間でいうと翌日の6時11分ですのでまさに「暁に至る」ですし、結局は曇って見えませんでした。

6月4日「我等、高橋、市野残居て太陽午中を測る。」「此夜木星、四小星凌犯を市野、平山、小坂等、暁七ッ頃迄測る。」。この夜にみえたものは何でしょう。JPLのサイトを見るとこの夜の日本時間で0:55からイオが木星の「前」を通過して重なって見えなくなります。いわゆるトランジットです。そうして朝の4時ごろには木星が地平に沈みますので「暁七ッ頃迄測る。」だったのでしょう。

6月5日「夜晴天、木星四小星凌犯を測る。」とあります。この日、夜の0時40分にイオの食が明けて光り始めます。見えなかったとも、暁に至るとも書いてありません。ただ一文、晴天で、木星四小星凌犯を測った、以上、です。会心の計測だったと予想されます。

6月6日「朝曇晴。此所より御用向書状を出す。七ッ頃御用状一通町奉行下役久米氏へ相渡す。尤、坂部より直に渡す。此日四ッ頃より曇り午中不測。仍て象限儀、子午線、御目鏡、垂揺球を取納む。此夜曇天。」。この日、書状を作成し、浅草局に送り、正午の南中は曇ってできなかったので、「象限儀、子午線、御目鏡、垂揺球を取納む。」と観測機器をすべて片付けています。

伊能さん達は伊勢・鳥羽でしか木星衛星の凌犯を計測していないのでしょうか?答えは、ノーです。日記にはっきりと書かれているだけでも、この先、岡山、浜田、隠岐の島、下関、中津、杵築、鹿児島、甑島、八代、平戸などで木星衛星の凌犯を計測しています。つまり、中国地方や、九州地方の経度を明確な意思を持って計測しようとしています。
伊勢・鳥羽が1805年の第五次遠征で、1813年の第八次遠征まで続けています。もし伊勢・鳥羽で木星衛星の凌犯計測が役に立たないもしくはまともに計測できないとなっていれば、その後の計測は行ってないはずです。「役に立つことが分かった」のでその後8年間も継続して行っていたのでしょう。伊能図提出の3年前に高橋さん(渋川さん)が「西洋では、この現象(木星の凌犯)を用いて各国の経度の差を測る。それゆえ、最も重要なことである。そもそも、日食や月食を利用して経度(里差)を求めることは、昔から変わらない常識的な方法なのである。今でも、経度測定にはこの(日食・月食の)方法が拠り所となっている。しかし、日食や月食は毎年必ずあるわけではない。さらに、昼間に起こる月食や夜間に起こる日食は観測できないため、実際に使える機会はごくわずかだ。それに対して、木星の四つの衛星は一周する日数が非常に速い。したがって、一年の間に食現象が数十回も起こるのである。たとえ昼間の食を省いたとしても、(木星の衛星の食は)なお非常に多い。経度を測定するのに、これほど便利な方法はない。元の書物には、その具体的な計算方法が記録されていない。おそらく、その技術は複雑すぎて簡単に広めることができなかったためだろう。しかし、経度を測る目的には、衛星が木星の影に入っていく時と出てくる時を観測できれば十分である。」と述べておられるように、経度決定に対する木星衛星凌犯計測の有用性を完全に認めておられます。

これまでの「木星衛星計測は経度決定の役に立たなかった」という定説を覆し、

「伊能さん達は、木星衛星の凌犯「も」、経度決定に用いていた。」

と結論できます。「も」というのは、前に述べたように、毎日の距離と方角の計測だけでなく、富士山や伊吹山などランドマークの方位を見える限り多くの場所から測定し、夜はできる限り天体観測をし、木星衛星の凌犯計測も行い、「それらの計測がなるべく、合理的に集合する地点をその位置の緯度・経度とする」という意味です。少ない種類の計測に頼らず、なるべく多くのソースが合理的に整合する地点を求めるという、現代でいうデータフュージョンや最尤推定の考え方を当時から用いているところ、非常にセンスが良いと言えます。

以上、200年以上前の、長い長い旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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